坐禅の授業と人間教育

坐禅

本校では校訓の示すように人格の陶冶(とうや)を教育の基本としています。
人格とは仏心の顕現(けんげん)であり、仏心(ぶっしん)とは仏と寸分(すんぶん)変わらない()み切った美しい心、(すなわ)ち自分と他人の区部のない心で、この心をすべての人は生まれながらにして等しく(そな)えもっているのです。 容易なことではありませんが、坐禅をし、自己を見つめなおす事によって少しでも仏心を磨きだし人格の円満(えんまん)()するものであります。
この教育の具体的な進め方として、全学年週1時間の坐禅を課し、禅の世界観・人生観に基づく法話、宿泊錬成(しゅくはくれんせい)(3学年時)等を行っています。 生徒同様に警策(けいさく)(ぎょう)じる人(指導教諭)も真剣に取り組んでいます。 折角(せっかく)の坐禅をする機会ですから、一生懸命精進努力をし、自分自身を高めていって頂きたいと思います。

警策(けいさく)について

坐禅の時に指導者が持つ棒を「警策(けいさく)」と呼びますが、 もともと道具の名称ではなく、「まだ悟っていないものを 警(いまし)め、修業が進んでないものを 策(はげ)ます」行為を示す言葉でした。 古い中国の文献には、「互いに警策せよ」 とか 「自ら警策して、決まりを破ってはならない」、「お互いに警策し、切磋(せっさ)しなさい」 などとあるように、 自分自身を(いまし)めたり、修行者がお互いに励まし合うことを意味します。
それが17世紀頃、(みん)時代末期から(しん)時代初期に坐禅中の居眠りなどを戒める道具の名称になり、日本には江戸時代初期に渡来僧(とらいそう)によって伝えられました。
以来、日本の禅道場でも警策を用いた指導が行われていますが、「互いに戒め、励ます」 という基本的精神は今も受け継がれています。 ですから警策は規則を破った罰ではなく、修業者がより坐禅に集中するために行われるものであり、また警策を行ずる者は文殊大師(もんじゅたいし)に代わって行うのだから、私情(しじょう)を交えてはならないとされています。
昨今、学校での体罰が社会問題となっていますが、坐禅における警策は体罰ではありません。 警策は坐禅中の身体と心を調(ととの)えるために行われるものです。
人間は誰しも自分を甘やかそうとする気持ちが生じます。 坐禅中にも 「眠たい」「動きたい」「足が痛い」 など、様々な感情が()き起こってきますが、そうした(なま)け心に自分一人で打ち勝つにはとても強固(きょうこ)な精神力が必要です。
しかし、警策があることで自分の心を調(ととの)え、養うことができます。 或いは、自分は坐禅に集中しようとしても、周りの人がゴソゴソ動いていたら、やはり気が散って坐禅に集中することが出来ません。 警策は坐禅中の雰囲気や秩序(ちつじょ)を守り、参加する生徒が心地よい坐禅をするために無くてはならないものです。

静慮(せいりょ)について

本校では、平成26年度後期より静慮(せいりょ)という取り組みをはじめました。
この静慮には、「心静かに考える」また、「落ち着いた心」という意味があります。
これは、本校建学の精神に(のっと)り、授業が始まるにあたって全員が静かに黙想(もくそう)をし、落ち着いた心で授業に取り組むことを目的としています。
昨今(さっこん)の若者は、「空気」や「ノリ」といった言葉をよく使います。しかし、周りに流されてしまっていては、本当に大事なことは見えてきません。今、自分が何をすべきか。何のためにここにいるのかをしっかりと考え、自覚することができれば、その人の態度や周囲の人への接し方は変わってきます。
授業に入る前に静かに黙想し、生徒の皆さん一人ひとりが、心と身(からだ)を 調(ととの)えてくれることを願っています。